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ミクシィに国連情報の「胎児の人権」に関する情報を乗せたところ、東京の神名龍子様から以下のご意見をいただいた。 長文ですがご紹介します。 >「こうした家族間、人間どうしが必ず矛盾した対立関係となる「人権」という考え方そのものが、本来ならば問われなければならない。」 岡本さんのこの指摘は至極真っ当なものなのですが、それは「人権理論の保守的再構成」という意味ではないと思います。 私から見れば、まずそれ以前の問題として、保守を自称する人達の中で「人権」について知っている人が少ないのです。知らないものを再構成できる道理がありません。 はなはだしきは「そもそも人権なる概念を作り出した近代が悪い」と反近代を唱える人が、名の知れた「保守」論者の中からさえ出てくる始末です。ただし私はこういう人は保守とは区別して「反近代右翼」あるいは単に「右翼」と呼んでいますが。 こういう人達からもしばしば「保守主義の祖」と称えられるのがバークですが、バークはフランス革命後の急進主義を批判していても、反近代を唱えたことはありません。そもそもフランス革命当時、イギリスはとっくに名誉革命等を経て近代化していました。しかしバークはそのイギリスを批判してはいませんし、アメリカの独立にも理解を示しています。 なぜバークのフランス革命批判が「反近代」だと誤解されるのかといえば、反近代右翼がマルクス主義史観に洗脳されているからです。マルクス主義では君主を認めませんから、本来なら人類最初の近代国家であるイギリスを、それが立憲君主制だという理由で無視します(日本の左翼が天皇制の廃止を目論むのも同じ理由です)。 つまりマルクス史観では、アメリカの独立やフランス革命を、人類初の近代国家の成立と位置付けることになる。特にフランス革命は「ブルジョア革命」として位置付けられ重視されます。マルクス主義史観にいうブルジョア革命とは、専制君主と倒した段階であり、社会主義革命の前段階に位置するものと定められています。 イギリスを無視して、フランス革命を近代革命の代表のように位置付け、その悪しき面を根拠に「反近代」を唱えるというのは、単なるマルクス主義史観の裏返しに過ぎません。日本で「保守」を自称する人が、こんな主張をしているようでは「近代」や「人権」の理解から程遠いといわざるを得ません。 この誤解の根源は他にもあって、1つはポストモダンです。ポストモダンのモチーフの1つはマルクス主義批判にあるのですが、ここでも近代思想はマルクス主義の原型とみなされ、批判の対象になります。 日本では「保守」を自称し、福田和也氏を「亡国的ポストモダニスト」と罵倒した中川八洋氏が、自分自身はこのポストモダンの論理によって近代批判を唱えています(笑)。 もうひとつ挙げるとすれば、呉智英氏でしょうか。彼は80年代初期に近代批判をして「封建主義」を掲げた人物ですが、同時に自分のものいいを「暴論」と認めてもいる人です。呉智英氏自身には罪はありません。ほとんどの人が「近代」や「民主主義」について「知ってるつもり」になり、疑いもしなかった80年代初期に、あえて「暴論」という形で「近代」に異を唱えたことには、時代的な必然性がありました。しかし、これはあくまでも「暴論」という形を取った「問題提起」だったはずです。 問題は、それから20年以上を経た現在、呉智英氏の「暴論」を「暴論」と思わずに大真面目に受け売りしている自称「保守」論者たちです。しかもその中には大学教授のような肩書きを持った人達も複数います。本来ならそういう人達は、「暴論」の受け売りに血道をあげるのではなく、呉智英氏が本当は何を問題提起したのかということを見抜いて、それに答える役目を果たさなければなりません。 まず「近代」というものを、「知ってるつもり」から脱却して、本当に理解しなければなりません。「近代の捉え直し」が必要なのです。 「人権」が矛盾した対立関係を引き起こす原因になっているとしたら、「人権」概念それ自体がおかしいというよりも、そういう矛盾を引き起こす左翼の「人権解釈」がおかしいんです。 左翼の主張に対しては、まず「お前たちの『人権』の理解は正しいのか」と問うべきなのであり、そこを省略して「人権」概念それ自体がおかしいと考えてはいけません。「近代の捉え直し」ができてれば、左翼に対して「お前たちの人権理解は間違っている」といえるんです。 たとえば例として、本文にあるような「胎児の人権」を考えてみます。それ以前にまず「権利」とは何か。「権利」がわからなければ「人権」の理解もできるはずがありません。 「権利」とは「正当」ということです。日本語で考えるからややこしいのですが、英語やドイツ語では、両者は同じ言葉です。 ここで重要なことは、権利というのは何も「近代」独特のものでもなければ、西洋独自の概念でもないということです。これも反近代右翼に多い間違いなのですが、しかしたとえば前近代の日本にも「権利」はあったのです。ただ、それが「権利」という語を用いて表現されていなかったに過ぎません。「私が××するのに文句を言われる筋合いはない」といえば、これは「私には××をする権利がある」というのと同じことなんです。 そもそも「正当・不当」の区別のない社会なんて、時代や文化の違いを越えてどこにも存在しません。どんな社会にも真偽、善悪、美醜の価値判断がありますし、これらの価値判断に基づくルールがあります。そういうルールがなければ、それは単なる人間の「群れ」であって、「社会」とはいいません。 次に「権利」の主体ですが、これは「人格」です。単に人間(自然人)であればよいということではありません。そもそも「権利」というのは「人格」同士の約束事なのです。 近代思想の中にもロックが唱えた「天賦人権説」のようなものがありますが、これは実は近代思想の中では異端であって、その後のルソーやヘーゲルは、この考え方をはっきり否定しています。 それにも関わらず、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言などで表現的に採用されているために、まるで「天賦人権説」が「人権」の根拠のように誤解されています。だけど、どちらの宣言もよく読めば、実は「天賦人権説」とは矛盾する条項が存在することに気付きます。たとえば人権宣言(フランス)には、 >第4条 自由とは、他の者を害しないすべてをなしうることをいう。各人の自然的権利の行使は、社会の他の者に、同一の権利を享有させることの外に制限されない。この制限は、法律によるのでなければ、設けてはならない。 とあります。誰も犯すことの出来ないはずの添付の人権を、人間が作った法律によって制限できると明言しているわけです(笑)。そうでなければ、死刑に限らず、いかなる刑罰も人間が作った決まり事として課すことはできません。刑罰が存在しない国家はありませんから、本当に「天賦人権説」を原理としている国家は存在しないということになります。 さて。このように「権利」は「天賦」にして「絶対不可侵」のものではなく、約束事ですから、約束の主体は責任能力を持つ「人格」ということになります。したがって十全な権利を持つのは、十全な責任能力をもつ(と考えられている)成人です。 「人権」とはすべての人に認められる「権利」ですが、「権利」の主体が責任能力を持つ「人格」である以上、「人権」の主体も責任能力を持つ「人格」に限られます。 逆にいうと、未成年者には責任能力の欠如や不足にともなって、「権利」や「人権」にも制限があるということです。ただし未成年者に認められる「権利」とその制限は、成人と未成年者との間で交わされた約束事ではありません。成人同士が、「この年齢の子供にはこの範囲の権利を認めよう」という約束を交わしたものです。 現に、子供の「権利」を認めると同時にその制限を定めた法律はたくさんありますが、その中には「子供代表の議員」が参加して成立した法律は1つもありません。そもそも「子供代表の議員」が存在しません。 胎児となればなおさらです。まず胎児は「人権」の主体ではありません。医学的・生物学的には胎児も「人間」であり「生命」であるわけですが、しかし胎児を、責任能力を持つ「人格」だと考える人はいないでしょう。 ですから、胎児を「権利」あるいは「人権」の主体と考えることは、根本的な誤りなのです。 したがって「胎児の生命の権利」といっても、「胎児」がその主体であるわけではありません。国連の委員会にも「胎児代表」はいません(たぶん)。 このような「権利」は、成人同士の約束事として成立させる以外にはありません。まずこの基本原理を押さえておくことが必要でしょう。 では、成人同士の約束事としての「胎児の生命の権利」の成立を目指す理由は何か。これは単なる「生命保護」や「人権尊重」では不足です。これをいうと、上記の通り、あらゆる刑罰を否定しなければならなくなり、社会そのものが崩壊するからです。 逆にいうと、刑罰は社会の秩序の維持のために必要ということは、すべての国が認めるでしょう(なぜならば刑罰のない国家はないのですから)。 では私たちは、堕胎の禁止や胎児の生命保護を通じて、何を実現しようとしているのでしょう。 おそらく「堕胎の禁止」や「胎児の生命保護」それ自体が究極の目的なのではなく、その実現を通じて「性」秩序や「家族」秩序をも守ろうとしているのではないでしょうか。「性」秩序や「家族」秩序も、社会の秩序の一部をなす重要な要素です。 それと同時に、この問題についてのフェミニストとの対立も、「人権」解釈の対立ではなく、「性」秩序や「家族」秩序の必要性についての対立ということが、本質的なのだと思います。 「人権」それ自体は上記の通り、「人格」間の約束事です。だから「性」秩序や「家族」秩序についての対立があると、双方が自分たちの主張に都合のよい「人権」解釈を提示することになります。 フェミニストは、まず彼らの「人権」解釈があって、そこから堕胎を認めろという主張を導き出しているわけでは、全然ない(^^;)。堕胎を認めろという主張をするために、その主張に都合のよいような「人権」解釈を持ち出しているに過ぎません。 最初に「胎児の人権とはいかなるものか」という話から入ったら、それぞれの立場に都合のよい「人権」解釈が出てくるだけで、水掛け論にしかならないはずです。そもそも存在しない(まだ成立していない)「権利=約束事」の内容を解明しようとしても、それは不可能なんです。 問題の本質は、「人権」や「権利」の問題ではなく、「性」秩序や「家族」秩序の必要性を認めるか否かということにあります。 刑罰の例でいえば、先に「刑罰は『人権』の見地から見て是か非か」という議論があって、「刑罰は必要(or無用)だ」という結論を出すわけではありませんよね。社会秩序の必要性ということが、真っ先にあるはずなんです。 それと同じように、まず「性」秩序や「家族」秩序の必要性を訴え、「そのためにはむやみな堕胎は有害なのだ」と主張する。その主張が認められた結果として「では『胎児の生命の権利』を認めよう」という約束事が成立する。これが話の筋だと思います。 |
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FXレビュー 2007/11/22 21:28 |
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